みなさん、こんばんわ。
よく、2ちゃんねるとかニコニコのコメントなどで、安々と「プロ」と表現しているケースをみかけます。以前、拙ブログのコメントでも、某選手を「プロ」呼ばわりしていて、説明に困ってしまい、その件については無視して打ち捨ててしまった事があります。
竹下さんのように、プロとして契約している選手も、何人かおりますが、バレーボールの場合、プロ契約している選手は、ほんのごく一部で、大抵は「実業団の選手」として紹介すべきなのですが・・・「プロ」と「実業団」の区別は、子供なら未だしも、いい大人でさえも分かってない人が多いようなのです。
久光製薬スプリングスの本拠地が所在する佐賀県の佐賀新聞にて7/29、下記のような記事が紹介されておりました。
基山町総合体育館で国体に向けた強化合宿中のバレーボールVプレミアリーグ女子久光製薬スプリングスが27日、基山町と鳥栖市の小中学生を対象にバレーボール教室を開いた。約210人の子どもたちが参加し、憧れの選手たちに直接手ほどきを受け、目を輝かせながら練習に打ち込んだ。
教室では、子どもたち5~6人に選手1人が付いて丁寧に指導した。オーバーハンドパスの練習では、栄絵里香選手と中大路絢野選手が代表して実演。「ボールの下に素早く入って」「手だけではなく膝や肘の曲げ伸ばしを意識して」とアドバイスを送っていた。スパイクの実演では重く鋭い音と共にボールが床をたたき、子どもたちからは歓声が上がっていた。
基山ジュニアバレーボールクラブ主将の立石桜さん(11)=基山小6年=は「楽しく細かく教えてくれたし、レシーブ、アタックの一つ一つがすごくて、さすがプロだと思った。自分もいつかスプリングスの一員になってプレーしてみたい」と声を弾ませていた。(佐賀新聞より)
下記の記事にて興味を払って欲しいのは、某小学生が「さすがプロ」と言っていた件です。栄選手も中大路選手も、これには「う~~~ん何て説明すれば分かるんだろう?」と困惑していたに違いありませんが・・・
プロフェッショナルである選手らはスポーツをすることで報酬を得ますが、報酬を決める基準となる評価対象は必ずしも競技成績のみになるとは限らず、その選手の人気(に伴う団体・組織の収益向上への貢献)を支えるファンの存在などの要因も報酬を決定する際に重要になります。
一方、スポーツで報酬を得ない、またはスポーツで得た報酬を二次的なものとする(「実業団」=アマチュア(学生スポーツ、社会人スポーツなど)とは対比されます。
実業団とは、企業や組合の従業員で構成されるスポーツチームです。学校のクラブ活動とともに昭和期の日本のアマチュアスポーツを牽引したチーム形態です。戦前の「大連実業団」のようにチーム名に実業団の語を用いられることもありましたが、戦後は、チームの概念としてのみ実業団という語が使われます。近年では母体の多くが特定の企業であることから「企業スポーツ」という表現で用いられる事例も多いです。
以前、バレーボールで実業団をプロ化しようという構想がありました。1994年に、Jリーグの爆発的な人気とバレー人気の低下から、バレーボールもまたプロ化を視野に入れた新リーグ構想が検討されました。同年に「21世紀に向けたバレー改革案」と題したプロ化構想が発表され、「プロ契約選手の承認」「外国人選手の復活」「プロチーム(株式会社化クラブ)チーム参加の承認」が掲げられました。12月にスタートする新シーズンから、それまでの「日本リーグ」を「Vリーグ」と改称し、世界選手権が開催される4年後の1998年には完全プロ化を目指すとの構想でした。しかし、開幕したまではいいものの、結局プロチームは誕生せず、興行権も依然として協会が持ち、プロ化に向けての大前提となるホーム&アウェー制は採用されず、更にはリーグのマーチャンダイジング関連会社と肖像権関連会社も作られる予定だったが、結局設立は見送られ、参加企業もプロ化には消極的で、結局は参加企業の賛同を得られないまま、1996年にプロ化の凍結を決定、事実上の断念を宣言しました。
その後、新リーグ構想こそ凍結したものの、ダイエーオレンジアタッカーズが「ダイエー系列会社の広告会社」という形で一応プロ化したり(後の久光製薬)、岡山シーガルズがクラブチームとして発足、また2003年にはVリーグを法人化したり一部ゲームにてホームゲーム方式を導入するなど、部分的には「プロ化構想」も取り入れておりますが、現地点においては基本的に「実業団に毛が生えたようなもの」といったところ。
先述した小学生の話に戻りますが・・・子供なのだから、プロと実業団の区別が付かないのは寧ろ当然かもしれませんが・・・これがもし大人であれば問題です。スポーツに興味がない大人からすれば、どうでもいい問題かもしれませんが・・・そう仰る輩は、スポーツという娯楽を実施するのに幾ら金が掛かっているかを分かっていないノンポリに過ぎない、という点を大の大人たちは認識すべきでしょう。